ネット言論はどうあるべきか 「言論の自由とは何か」を考えてみた 言論の自由の向こう側には暴力が存在する

突然ですが、皆さんは「自由」という言葉にどいうイメージを抱いているでしょうか。僕も含めて、大体良いイメージを持っているかと思います。自由が良いに決まっています。逆に「不自由」な社会など誰が望むでしょうか、という話です。自由とは行動、判断、言動、表現など人間の行為の全てに保障されています。少なくとも、この日本では。その情況を僕らは謳歌している訳ですが、先人たちが命を犠牲にして得たものという事も忘れてはいけません。ですから、その為にも僕たちは「自由」であるこの社会を守っていく義務があるはずです。

少し話がそれますが義務という言葉は尊いと捉えていて、動物と人間の違いは義務を感じるかそうでないか、と思っています。動物は本能で子育てや狩りをしたりします。義務は本能を抑制する機能です。本能よりも優先させなければならない事がある時、人間は義務感で行動します。すなわち「義務感こそ人間を人間たらしめるものである」。これは記憶が正しければ花村萬月著『笑う山崎』に出てきたフレーズだった気がします。

話を戻すとメディアの末席を汚すものとして、「自由」と言うと僕とっては「言論の自由」(「表現の自由」)をまずは思い浮かべます。拙著『生身の暴力論』(講談社新書)でも書いた事と重なりますが、憲法で保障されているこの「言論の自由」。絶対、守るべき「精神」ですが実は非常に残酷な面を持っている点に留意しなければなりません。

言論の自由とは時として人を傷つけます。軽い例だと書物や映画・ドラマや美術作品に対する批判です。痛烈な批判を放つ論者もいます。書かれた側は傷つくでしょう。とは言え、クリエイターも表現・言論の自由に基づいて作品を世に出しているのですし、その時点で「公共物」として扱われる訳ですから批判の対象になり得るのです。

その批判に対する言い分を言いたい、あるいは書きたい場合。反論権を人は持っている訳です。ですから特にメディアの人間は自社媒体を使って反論に打って出るべきです。しかし、そういった話は最近聞きません。

近年、芸能人の裁判が目立ち、大体、媒体側が敗ける訳ですがそもそも、なぜ芸能人は反論権を行使しないのでしょうか。

紀州のドン・ファン事件で気になる「ウラの司法取引」という捜査手法|李策 | TABLO