ネット言論はどうあるべきか 「言論の自由とは何か」を考えてみた 言論の自由の向こう側には暴力が存在する

メディア人同士ならば自分の媒体で反論すれば良いでしょう。しかし、芸能事務所は、反論文が掲載されないのであれば、裁判という手段に訴えるほかなくなってしまいます。僕などは芸能人の反論があれば是非、読みたいと思うのですがメンツなのか、大手媒体はよほどの大事でないと反論は前記のフランスの新聞社が指摘した通り掲載しません。これをメディアの問題点の一つとして挙げておきます。

そして「言論の自由とは」と書いた手前、これについて僕の見解を述べておきます。先に書いたように「言論の自由は何も書いても良い。その代わり何を反論されても良い」というものだと思います。が、反論で済めば良いのですが、それ以上の反撃があり得るます。

暴力です

これは「『噂の真相』襲撃事件」(右翼が編集部を襲撃)や、「深沢七郎著『風流夢譚』事件」(天皇を侮辱したとして右翼が版元社長宅を襲撃)などが思い浮かびます。
ネット言論においては、ツイッターやインスタやYahoo!ニュースにYouTubeのコメント欄で、差別や罵倒、中傷が飛びかっています。が、先の原則論で言えばそれさえも「言論の自由」の範疇に入り得るのです。しかし、その代わりに脅迫や名誉棄損などで逮捕されたり、提訴されたりするというしっぺ返しが待っています。

それどころか、前例のように「言論の自由の向こうには暴力が存在するかも知れない」。そういった覚悟や想像力がない書き込みが目立ちます。

「言論の自由」と「暴力」はコインの表裏と言えるかも知れません。

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暴力は絶対振るってはいけません。ふるった側も振るわれた側もデメリットしかないのです。ふるった側は逮捕それたり社会的地位が奪われる可能性があり、ふるわれた側はプライドが傷つけられたりトラウマになってしまう事もあるからです。それでも関係ないとばかりに暴力に訴える輩はいるでしょう。それと同時にネット上のヘイトや中傷もなくならないでしょう。ネットで書き放題書いている人は言論の自由の元にそれが出来る訳です。が、言論の自由の向こうにはもしかしたら暴力さえ存在した(これからもし続けるだろう)歴史を学んでおくべきです。(文@久田将義)