親黙り、子黙り「お兄ちゃんは木の間に入っていって見えなくなった」|川奈まり子の奇譚蒐集二五(上)
午後の早い時間に訪れた宿から至近の海水浴場はびっくりするほど綺麗で、入り江になっているためか波がほとんど無く、子どもを安全に遊ばせることが出来た。小さな魚やヤドカリ、蟹がいて、息子たちは大はしゃぎ。妻も満足そうで、いつもはあまり飲まないビールを祥吾さんに付き合って楽しんでいた。
さらに、バーベキューのときに給仕を務めた少年がある提案をしてくれたので、夜まで面白いことが続きそうな運びとなった。
「昼間に行った海水浴場に夜光虫がたくさん集まる場所があるから、もしよかったら案内すると言ってくれたんですよ。そうですね……16、7歳かな? 高校生だと言っていました。とても礼儀正しくて、でも話しかけると何でもハキハキ答えてくれるし、すぐに好感を持ちましたよ。タダで案内すると言うので、最初は遠慮したんですけど、子どもたちが行きたがって……。結局、食事の後、8時になったら部屋に迎えに来てもらうことになりました」
私も式根島で夜光虫を見物したことがあるが、宿のオプション・ツアーになっていて、幾らかお金を取られたと記憶している。祥吾さんにそう話すと、彼は「普通はそうですよね」と言った。
「実際、2日目の朝食のときに、宿のご主人が有料の夜光虫と星空見物ツアーの参加者を募ったのです。妻と顔を見合わせてしまいましたよ。じゃあ昨夜の男の子は何だったんだろうって……。夜光虫を見に行ってから変なことが起きたせいもあって、ちょっと薄気味悪く感じ、だから朝食後すぐに宿のご主人に昨夜のことを話したんです。すると、ご主人はそんな少年は知らない、給仕として雇った覚えもないと言うので、いよいよ怖くなってきました」
――少し時間を戻そう。正体不明の少年だとも知らず、夜の8時に祥吾さんたち家族は部屋で彼が迎えに来るのを待っていた。
8時ちょうどに砂利を踏む音が聞こえてきたと思ったら、すぐにドアがノックされた。
祥吾さんがドアを開けると、バーベキューのときの少年が静かな面差しで佇んでいて、「ご準備は出来ましたか?」と訊ねた。
そのとき初めて、祥吾さんは少年の名前を聞いていなかったことに思い至った。
そこで訊ねると、「鈴木です。鈴木太郎と言います」という答えが返ってきた……というのが祥吾さんの記憶なのだが。
「妻は、違う。そんな名前じゃなかった。佐藤タケシだったと言うんです。それも変な話ですよね」