親黙り、子黙り「お兄ちゃんは木の間に入っていって見えなくなった」|川奈まり子の奇譚蒐集二五(上)

長男の隼人さんが、「お兄ちゃん、もう行っちゃったよ」と祥吾さんに言った。「もう帰らなきゃって。あっちに走っていった」と中庭の奥を指差す。そちらの方の玉砂利が濡れて光っていたが、足跡は判然としなかった。幼い子らの説明は要領を得ず、「お兄ちゃんは木の間に入っていって見えなくなった」などと言う。

「千円札、あげそこねちゃった」と正美さんが小声で言った。

「明日、御礼を言えばいいよ」

祥吾さんは部屋の鍵を取り出した。少し会話が途切れると海の方角から目には見えない、なんとも言い表しようがない、圧力を感じた。急いでドアを開けて、妻子を先に入らせた。

ドアを内側から閉める直前、中庭の奥に少年がこちらを向いて佇んでいたような気がして二度見したが、見直してみたら誰もいなかった。

「僕と息子たちはすぐにシャワーを浴びて、その後、妻がバスルームに入りました。次の日は朝食の後、自転車を借りて温泉や展望台に行ってみるつもりでした。体力を使うし、8時に朝食の予約を入れていたので、なるべく早く子どもを寝かせようとしたんですけど、思ったようにはいかなくて……妻が風呂からあがるまでゲームをすることを許してやりました。隼人も翔琉もDSを持ってきていたので。そのときにはもう時刻が10時近かったかな? だから妻が怒ったのなんの。バスルームから出てきた途端に、それはもう、えらい剣幕で。僕まで叱られちゃいました。それで、すぐに消灯して全員眠ろうということになりました。玄関からいちばん遠い窓際のベッドに妻と翔琉が寝て、その隣に簡易ベッドを用意してもらっていたので、そこに隼人がひとりで寝て、僕は玄関側のベッドに……。窓から庭の常夜灯の光がかろうじて差し込んでいました。眠る邪魔にはならないぐらいの程よい明るさで、妻と翔琉が寝ているシルエットがはっきり見えました」

正美さんと息子らは間もなく寝息を立てはじめた。

しかし、祥吾さんはなかなか寝つけなかったのだという。

いつもはもっと遅い時間に眠る習慣であることに加えて、海での出来事が気味の悪い後味を胸の底にこびりつかせていた。

五本の指を備えた小さな掌の感触が腰の辺りに残っているように感じたし、階段に立っていた黒い影にも、まだ納得がいっていなかった。断じてあれは木ではなかったと思うのだ。では人かと訊ねられたら、なんだか人でもないような。肩も脚も無い、あの格好は……海坊主?

しかし、「そんな馬鹿な」と自分で自分を嘲笑する余裕が、このときはまだあった。(川奈まり子の奇譚蒐集・連載【二五・上】)

(つづく)

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