見えない代わりに 前編 「視力と引き換えに彼が得てしまった能力とは」|川奈まり子の奇譚蒐集三〇
手術直後からそれは始まった。
そのとき、両目の網膜に外科手術を施された後の措置として、澄夫さんはうつ伏せに寝るように指導されていた。この時点ではまだ、包帯が解かれたときには視力が戻っていることを彼は期待していたが、とりあえずは両目が塞がれて、何も見えない状態になった次第だ。麻酔が覚めるとほどなく、看護師や家族が運んでくる食事や会話によってしか今が何時かもわからないことに気がついた。
夕食が済み、自分を訪ねてくる者がいなくなると、まだ黄昏時なのか、すでに夜中なのかの見当もつかなくなった。
回復のためには早々に眠ってしまうべきなのだろうが、鎮痛剤を点滴で入れてもらっても尚、多少痛みがあり、頭が冴えて仕方がない。どうしても眠気が萌さないので、彼はこっそりとラジオを聴くことにした。昼間のうちに、両親がポータブルラジオとイヤホンを持ってきて、枕もとに置いていってくれた。コードを手繰り寄せてイヤホンを耳に挿し、手探りでラジオの電源を入れて、周波数を探る……と、どうだろう! たちまち、現在の時刻が明らかになった。
「午前1時ちょうどをお報せします」
こんななんでもないことが、今の澄夫さんには嬉しかった。彼はさっそく好きな音楽とディスクジョッキーのトークを楽しみはじめた。やがて、ラジオが午前2時ちょうどを報せた。
と、その瞬間、左の足首を何者かが両手で掴んで引っ張った。
「何? 誰?」
驚いて彼は大声で問うたが、足首が解放されただけで、返事はなかった。
「何や? 看護師さん? 違うんか? 誰や!」
やはり答えが返らない。しかし、ベッドの足もとの方に人の気配を感じた。
衣擦れの音。床の上で足を踏みかえる音。両目を閉じられてから無意識に緊張して耳をそばだてている彼は、どんな小さな音も聴きもらさなかったのだ。
そのとき、どういうわけか、ふと彼は、この棟の地下に霊安室があることを思い出した。
参考記事:阿蘇山の夜道 「夜中に寝ていると『窓の外を見ろ!』と叫ぶ何者かの声」|川奈まり子の奇譚蒐集二七 | TABLO