見えない代わりに 前編 「視力と引き換えに彼が得てしまった能力とは」|川奈まり子の奇譚蒐集三〇

この病院は地域の拠点である大きな総合病院で、ましてや糖尿病の持病を抱えていたため、昔から幾度となく受診したことがあり、病棟の地理は知り尽くしていると言ってもよかった。

ここはメインとなる棟の6階にある個室で、自分は部屋の出入口に足を向けて寝かされており、そして出入り口は廊下を挟んでエレベーターと向かい合っているはずなのだ。手術前に、看護師から説明を受けていたから、それは確かだ。

……霊安室からエレベーターに乗って死者の魂がやってきたんじゃないかと想像してしまった。

しかし、まさか幽霊なんているわけがないのだから、入院患者に変な奴がいて、悪戯をしかけてきたのだろうと、すぐに考え直した。そこで「はよ自分の部屋に戻らんか! あっち行け」と、そこにいるはずの誰かに向かって叱りつけ、あとは無視してラジオに没頭した。そのうちようやく眠気が萌してきて、看護師に揺り起こされるまで目が覚めなかった。

日中は、目が見えない不自由さを除けば、何事もなく過ごした。そしてまた夜になった。睡魔の訪れを待ちながらラジオを聴いていると、やがて……。

「午前2時ちょうどをお報せします」

昨夜のことがあるので、彼は緊張して身構えた。が、何も起らず、ホッとした……と思ったら、おそらく2時の時報から3分ほど経って、左の太腿をポンポンと掌で軽く叩かれたのである。

小さな掌だった。

力も弱く、従って痛かったわけではないが、感触がひどく生々しかった。子どもだ、と、閃いた。入院中の小児患者が病院をうろついて遊んでいるのだ。

「コラ! こんな時間に人の部屋に来て何をしてるんや! 出歩いちゃ駄目やないか!」
「……」

返事をしないが、何かがベッドの足もとに立っている感じが伝わり、それが一向に去らない。

「あっちへ行きなさい」
「……」

ナースコールで看護師を呼ぼうかと迷ったが、相手は子ども。しかも健常者ではない。看護師に見つかればこの子は叱られて、今後は見張りがつくかもしれない。それに返事をしないのではなく、口がきけない状態なのかもしれない。自分が今、目が見えなくなっているのと同じように。そう思うと、哀れである。

「……見つかったら叱られてまうぞ。お兄さんは目の手術をしたばっかりやし、遊んでやれんのや」

澄夫さんは優しく諭して、あとは放っておいた。足もとの子どもは大人しく、ずっと沈黙していたので、しばらくすると彼は眠りに落ちてしまった。朝に起きたときには気配が去っていたので、自分の病室に帰ったのだろうと思った。

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