見えない代わりに 後編 「会った記憶もない祖父が出てきて笑顔を見せた」|川奈まり子の奇譚蒐集三一

読経が終わる頃から、誰かが立ちあがって畳の上を行ったり来たり、うろうろしはじめたのである。親戚も来ていたから、いとこか誰かの子どもかもしれないと思い、澄夫さんは最初、住職か、その奥さんが、声をかけるだろうと予想した。住職夫妻は世話好きで子ども好きな性質だ。「退屈しちゃった?」とか「トイレに行きたいの?」とか、こういうときには真っ先に声を発しそうだった。

ところが、いつまで経っても、歩きまわる者を無視している。住職たちだけでなく、誰ひとり、そのことを指摘すらしない。なぜだ……と、心の中で首を傾げていると、足音が澄夫さんの背後に迫り、やがて真後ろでピタリと止まった。

畳を踏む微かな足音や、畳が後ろでわずかに沈み込む感覚。いつの間にか、そうしたものを敏感に察知できるようになっていた。だから背中の後ろに誰かがいることは疑いようがなかった。

……子どもではない。畳の沈み具合から推して、大人だ。

もしかして……と、夢で見た色鮮やかな光景を思い出しながら、声に出さずに問いかけた。

「おじいちゃんなの?」

そうしたところ、スーッと背後の気配が薄れて消えた。やはり、祖父だったのだと確信した。夢に現れた祖父の霊に招かれてここを訪ねた。「おじいちゃん、会いにきてくれたんやね」と、また胸の中で祖父に話しかけながら、澄夫さんは不思議な感動を覚えていた。

浜松では懐かしい人々に会って語らったり、ご馳走を食べたりと、思いがけないほど楽しい時間を過ごした。景色も堪能した。今は見えなくなっていても、そこに行けば、かつて眺めた景色が記憶の奥から立ちあがり、脳の中でフルカラーで再生されるのだった。

浜松に帰ったときには必ず食べていた鰻は、見るからに香ばしく焼けて艶やかにタレがかかっているのが、盲人になってもわかることを知った。ドライブ中に窓を開けたときに流れ込んでくる、夏の、湖畔の、海の、山の匂いも、彼に鮮やかな景色を運んできた。脳で再現される色彩と郷愁に充ちた光景は、彼に希望をもたらした。

まだ、やれる。そう思えたのだ。

つまり、これが生きる喜びと再会する旅になった。

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