拷問! PCなき平成初期の雑誌作り 誰もが興奮した紙メディアはこうして作られていた(私が編集したページ付き)|中川淳一郎

しかし、それからそれ程先ではない2004年、ネットがかなり普及し、グロ画像や無修正画像がネット上には多数存在していた。イラクで人質になった香田証生さんの首が斬られる動画なども当時、会議などでネットについて喋っている時は話題となった。その時も酒鬼薔薇の時と同様に「あれ見た?」「いや、恐ろしくて見られない」などと喋っていた。

そんな私も2001年に会社をやめ、フリーライターになった。雑誌制作にかかわることとなったのだが、ほとんどはライターとしての関与のため、Wordで書いた原稿と撮影した写真とイラスト、エクセルで作った表などを編集者に送るだけで後は編集者がデザイナーと相談のうえで、誌面に展開していった。

 

「写植」で雑誌を作っていた時代

 

そんな中、自分も編集をやってみたくなり、雑誌「テレビブロス」の編集部に売り込みの電話をしたところ、運よく編集長が出てくれ、そのまま採用となった。当時の雑誌制作についての記述をWikipediaから引用する。これは「電算写植」という項目の「2000年代以降」という部分だ。

〈大規模出版においては2000年代頃まで電算写植が使われていたが、1999年にQuarkXPressを上回る機能を持つDTPソフトウェアAdobe Indesignが発売され、Adobe Indesignの機能向上が進むにつれて、大規模出版を含むほとんどの出版がAdobe IndesignベースのDTPに置き換えられた。〉

というわけで、当時の主力だった雑誌作りの方法とは、編集者が「ラフ」と呼ばれる誌面の設計図と原稿、イラスト、表、写真(以下「素材」)をデザイナーに渡し、彼らがIndesignを使い、文字を入れた形でPDFを編集者に戻す形で作っていた。これを「データ入稿」という呼び方をしていた。

一方、ブロスの場合は「写植入稿」と呼んでいた。手順は以下のようになる。