拷問! PCなき平成初期の雑誌作り 誰もが興奮した紙メディアはこうして作られていた(私が編集したページ付き)|中川淳一郎

【1】原稿以外の素材とラフを持ってデザイン会社へ。配置や強調したい部分等について打ち合わせをする。

【2】翌日ないしは2日後にデザイナーが該当ページの文字以外の「素材」が入ったデザインを送ってくる。ただし、タイトルや見出しなどはこの段階で入っている。ここではあくまでも配置と文字数、フォント、級数が決まる。微修正をしてもらう。

【3】このデザインを基に原稿を書き始める。もしもはみ出てしまった場合は「文字の級数を小さくする」ないしは「平体・長体にする」という技を駆使して強引に文字を増やす。これは後に印刷会社で指定する。

【4】月曜日夜:編集部に集合。編集者が一斉に「入稿」作業を行う。デザイン会社からは修正したデザインが編集部に届いている。自分の担当ページを抜き出す。テキストを印刷した紙に「あ」や「い」「A」「B」などと「相判」を振り、デザイン用紙にも「あ」などと入れて「この原稿はここに入りますよ」を印刷所のオペレーターに対して分かるよう加工をする。夜が遅くなってくるとデザイナー軍団も編集部にやってくる。火曜日朝6時までにビル1階の守衛所にすべての素材とデータの入ったフロッピーディスク、CD-R、指示書(作業したもの)を封筒に入れて渡す。

【5】火曜日夜:大日本印刷の「出張校正室」へ。編集部ごとに部屋を持っており、ここでようやくデザインに文字が入った状態のものを見ることができる。事実関係の修正をしたり、はみ出ていたりした場合は、級数をさらに小さくする、などの指示を印刷所に対してする。この段階で初めて入るテキストや写真もあったりする。ただし、印刷所はあまりそれを喜ばない(当たり前か)。

【6】水曜日夜:「念校」のために再び大日本印刷へ。この日は「青焼き」と呼ばれる、「印刷見本」的なものが渡される。最後の最後、チェックをするのだ。印刷所の人は「まぁ、文字を少し直す、ぐらいでしたらいいですが、大きな変更はナシでお願いします」と言う。

【7】無事終了し、大日本印刷の敷地外にある酒屋で印刷会社の人々が外で立ち飲みをしているのに混ざって一緒に酒を飲む。

【8】翌日テレビブロス発売。それから1週間は抗議電話が来ないかを祈るとともに、早くコンビニから消えてくれ~と願う。さすがに抗議は1週間以上過ぎると来なくなる。