わたしだけが覚えている、『男はつらいよ』
「はい、今日はもうおしまい。この一杯で帰ってね」
小さな居酒屋さんで、店員さんから席を立たされたおじさんを前に、わたしは、「仕方ないなぁ」と焼き鳥の串を手にとりました。
そのおじさんはさっきまでわたしに、『男はつらいよ』の寅さんがいかにかっこいいかを熱心に説明していました。「寅さんは、ちょっと俺みたいなところがあるな」と笑うおじさん。わたしは寅さんシリーズを1本も見たことがないので、「そんなフーテン暮らしのひとを好きになりたくないですよ」と言います。カウンターの中にいたお店のママが笑いました。
右の目から頰にかけて、大きな絆創膏をつけていたので問うと、酔って玄関で転んだそうです。酒癖の悪かった家族のことを思い出して、「そういうのまじで気をつけたほうがいいですよ!」と思わず語気を強めたわたしに、おじさんは「そうだよなあ、命はいっこきりだもんなあ」と真剣な顔でうんうんと頷いていました。
しばらく会話を交わした後、またそれぞれ黙ってお酒を飲んだりスマホをいじったりします。気づくと机に伏せるような体制で、今にもねむってしまいそうなおじさんが店員さんに追い出されるところでした。
羽織っていた作業着をイスの背もたれにかけたまま、ふらふら歩いていってしまったので、「忘れてますよ!」と声をかけ、転ばないでくださいねと手をふったところ、今度はかぶっていたキャップを机においていってしまったので、二度目の声をかけました。
「また忘れてますよ!」
実は、はじめましてじゃない
おじさんが帰ってからも、家につくまでにきっとどこかで、なにか忘れものをするんじゃないかな、と気がかりでした。帰り際、「ねえちゃんありがとう」と何度も手をふっていましたが、酔いがさめたらわたしのことも、交わした会話も忘れるのでしょう。
あんなに、にこにことしていたけれど、きっと覚えていないと思います。
だって、わたしとあのおじさんが話すのは二回目だからです。
少し前に、同じようにカウンターで隣同士になり、話をしたことがありました。
わたしだけが、あのおじさんを覚えていました。
前回も今日も、一杯しか飲んでいないわたしは、家に帰っても明日の朝になっても、交わした会話も、『男はつらいよ』のことも覚えています。次に会ったら、三回目だということも。
愛想が良くて、さみしいくらい少しだらしないあのおじさんは、すこしだけ父親に似ているような気もしました。
都合がいい他人同士だからこそできること
あの日、「また忘れてますよ!」と、笑いながら声をかけましたが、これが血縁だったとしたら、わたしは優しい言葉をかけることも、「仕方がないなぁ」という気持ちで見ることもできないと思います。「なんで忘れるの?! 前も言ったよね?」と声を荒げてしまうかもしれません。
どんなに楽しく話したとしても、忘れられてしまうむなしさは、自分の存在の軽さと同じに思えるからです。
しかし、人生が偶然交差したときしか知らない、都合がいい他人同士だからこそ、優しい気持ちを向けることができるから不思議です。
他人なので、話すのは二回目だということを気付かれなくてもショックには感じませんでしたが、これが父親だったとしたら、責めていたでしょう。「その話、前もしてたよ! なんで覚えていないの!」お酒を飲んで、言ったことを忘れるなんて、とかなんとか、きっとひどい言葉も投げてしまっていたでしょう。
血縁には、なぜ確実に相手が傷つくだろう言葉が次から次へと思いつくのでしょうか。
目の前にいたあの人だって、あんなに気のいいおじさんでしたが、どうも深酒が日課のようなので、家族には問題に思われているかもしれません。もしかしたら、知らない土地で、わたしと同じ年齢の娘が存在していて、わたしが父親に対して思っている恨めしさと同じ感情を、もっているかもしれません。わたしが血縁だったら、そう思うからです。
けれど、わたしたちは他人同士だったので、おおらかな気持ちで、「転ばないで、気をつけて」と声をかけることができました。
他人にできることをやっていく
「家族の愛憎は、決して美しいものではない」に書いたように、他人にできることだけをやっていこうと思っているので、自分自身にたいして、「優しいふりをしてバカみたい、自分の血縁にはできない冷血人間のくせに」なんて、少しも思いませんでした。
血のつながりがないから、優しい気持ちを保つことができたり、感情的になりすぎずにいられる。教職や介護、わたしの活動の軸であるメンタルヘルスに関しても、そういった面があるかもしれません。
しかし、それと同時に、こんなに恨めしく思っている父親や祖父も、実は誰かと話したい気持ちがあったのでは、さみしかったのでは、こんな風ににこやかに笑いたかったのでは、と思いはじめて悩んだり悔やんだりすることだけはやめようと思っています
祖父のDVや父親の蒸発により傷ついた自分を、いなかったことにしてしまうからです。
大丈夫、あのとき、わたしは優しくできない自分を責める必要も、我慢し続けて優しい言葉をかけ続ける必要もなかったのだ。
血縁にたいしては、無理にでもそう思っていないと自分を保てなくなります。
誰かのせいにしない、という美徳はひとを苦しめます。
家族は愛し合うもの、家族は助け合うもの、という幻想に苦しむ家庭も存在します。
ふと、カウンターに置かれたままのキャップに気づきました。キャップをとって、ありがとうねと言ったまま結局置いていったようです。信じられない! と笑っていると、お店のママは、「そのうち取りに来るから大丈夫」とあきれながら言って、ボトルキープの棚にそのキャップを置きました。
外の顔は良かった祖父にも父にも、誰かは優しくしてくれて、こうして笑いあっていたのかもしれません。誰かが誰かに優しくして、誰かは誰かに優しくしてもらっている。血縁にできることも、血縁にはできないこともある。
忘れ物をとりにきたおじさんは、きっとまたはじめましてを繰り返すことでしょう。次に会うとき、今日のことは覚えているのでしょうか。3回目の『男はつらいよ』のはなしを聞くことになっても、わたしはきっと笑って過ごせると思います。
はみだしてしまうほどの寂しさ、血縁だったら、うんざりしてしまいそうなそれぞれの弱さを、「仕方がないなぁ」と笑いとばしたり心配をしたりするのは、他人の役目なのかもしれません。
(成宮アイコ・連載『傷つかない人間なんていると思うなよ』第十九回)
文◎成宮アイコ
https://twitter.com/aico_narumiya
赤い紙に書いた詩や短歌を読み捨てていく朗読詩人。
朗読ライブが『スーパーニュース』や『朝日新聞』に取り上げられ全国で興行。
生きづらさや社会問題に対する赤裸々な言動により
たびたびネット上のコンテンツを削除されるが絶対に黙らないでいようと決めている。
2017年9月「あなたとわたしのドキュメンタリー」(書肆侃侃房)刊行。
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