釜ヶ崎のおっちゃんとわたしが終わらせないでいる日常|成宮アイコ
郷土資料専門の所で調べてもらうと何かわかるかも、と案内されて図書館の二階へ向かいました。その部屋は四方を資料の本棚でかこまれていて、なんだかものものしい雰囲気でした。
過去の地図や田無の歴史資料を出してもらい、どんどん過去へ過去へと地図表をさかのぼりました。50年前、もっともっと、60年前、いやもっと、70年前。
同じ地形のまま、田んぼだらけになった70年前の地図のページをめくります。その中から大きな土地、白い場所を探しては確認。施設はどこにあったんだろう、広い場所、広い場所…。
「田無って広かったんですね、これはたいへんだなー」
手がかりが見つからない気持ちをごまかすために、明るく言います。
「そういえば向こうの駅は一度名前が変わったんですよね、いまはひばりが丘なんですけど、昔は田無町駅だったんです」
「田無町…?」
ひばりヶ丘は昔は田無町駅だった。
初めて聞く内容です。
「そうなんですよ、昔、田無の範囲って広かったんです。もしかして、タナシではなくてタナシマチも『田無』と言っていたかもしれないですね」
そこでわたしたちは「田無 陸軍自動車学校」ではなくて、「ひばりが丘 陸軍自動車学校」で調べることにしました。
急いでスマホで検索をしたところ、1件だけその情報が詳しく書かれているページを発見しました。同じく、司書さんも当時のひばりが丘の新聞記事から「陸軍自動車学校」のコピー記事を発見。そこには鉛筆書きで “現在のひばりが丘にあった” と記載されていました。
あおさんは新聞の日付を見て軽く声をあげました。