憑きもの体験記1「ガラスに目を走らせると、自分の50センチ後ろに人の気配を放つ陽炎が映っていた」|川奈まり子の奇譚蒐集三八

忙しくてそれどころじゃないというのは、ある。

しかし、それだけではないという気がする。

この雰囲気に呑まれてしまって、みんな黙っているのではないかしら。

実際に工程はハードで、たびたび午前2時頃まで机にへばりつく破目になったが、日曜日は東京の下宿や社員寮に帰ることが許されていた。

数人ずつ連れ立って、駅前に食事しに行くこともあった。

雑談する時間が皆無というわけではなかったのだ。

けれども、神社が作業場になっていることの不思議さを口に出して言う者はいない。

一週間、二週間と日が経つにつれて、皆のこの沈黙自体が奇妙なものに感じられてきた。

作業を始めてからひと月ほど経ったある日のこと、午後の2時頃、トイレに行くために板敷の廊下へ出て、スリッパの踵をパタパタと鳴らしながら急ぎ足で歩いていると、背後に人の気配を感じた。

この廊下は広縁で、中庭に接する廊下の片側にガラス障子の引き戸が嵌っている。反射的にガラスに目を走らせると、自分の後ろに陽炎が映っていた。

夏の坂道に立つ陽炎に似た、透明なモヤモヤが50センチほど後ろにある。

それが、人の気配を放っていた。

信じ難いものに対峙してしまった。