髪女 「浴室の排水口にびっしりと絡まっていた黒くて長い髪の毛の謎」|川奈まり子の奇譚蒐集二九

「明日も会社があるので、早く帰りたいのですが」
「事故の相手方のお身内が謝罪したいとおっしゃられているようですから、署で面談してからお帰りになられた方が、後々、面倒がないでしょう。あなたもお怪我はないようですし」

説得されて警察署に行くと、再び事情を聴かれた。

「ほぼ真後ろから追突されて、電柱の方へ跳ね飛ばされました。ぶつけられるまで何も気づきませんでした」

そのすぐ後、警察署で引き合わされた女性の夫だという男性にも、正博さんは同じ話をした。彼は訝し気な表情で聞き入ると、どうにも納得がいかないといった口調でこんなことを言った。

「妻がなぜあんな場所に行ったのか、私にはそれが不思議です。いつも通る場所ではないし、あっちの方に用事があったとも思えません。住んでいる所からも遠いし、第一、なぜあの時間に車を運転していたのか、さっぱりわかりません」

ひとしきり首を傾げてみせてから、正博さんに茶封筒を差し出した。

「これで新しい自転車を買ってください」

帰り道に封筒の中を確かめると数万円入っていた。後で人に話したら、もっと貰えたはずだと言われたが、正博さんにとっては充分に有難い金額だった。