虫の知らせ 「今日は何か変だ…帰った方がよさそうな気がする」|川奈まり子の奇譚蒐集二三

15年ほど前の20歳の頃、溝口さんは都内の印刷会社に勤務していた。専門学校を卒業して最初に就職した会社だったが、昨今なら「ブラック企業」と呼ばれてしまいそうなところで、中でも溝口さんが配属されていた営業部は毎日残業が当たり前、ノルマが厳しく、部長は仕事の鬼で部下を叱る顔も鬼そっくりという、過酷な職場だった。

お盆休みも返上して8月の猛暑日でも働きづめに働いていたが、世間の人がみんな鬼部長のようでないのは当然で、ある日、得意先の会社が休みだとわかった直後のこと。
かなり唐突に「溝口、今日はもう帰っていいぞ」と部長が言った。

咄嗟に時計を見たら、まだ午前10時。これは夢か。信じられない。部長は暑さで脳味噌がやられてしまったのではないか。などという台詞を全部グッと呑み込んで、「ありがとうございます!」と溝口さんは返事をし、部長の気が変わらないうちにと、大急ぎで会社を飛び出した。

得意先の1つが臨時休業だからといって他にも取引先はあるのだ。また、他の社員は働いていて、溝口さんだけが帰された。

何か失敗をしでかして帰されたわけではない。よほど顔色が悪いのかと思って、帰りがけの電車でそっと手鏡に顔を映してみたけれど、むしろ普段より血色がいいほどだった。

たいへん不思議に感じながら、家に帰った。